下の三十石船と同様に守口文庫様からの依頼で製作しました。 明治初期から就航した両舷に外輪推進器をつけた川蒸気船です。 蒸気汽船が就航すると、三十石船は衰退していきました。 写真はこちらから |
守口文庫様からの依頼で製作しました。 徳川時代の初期から京都←→大坂を結んだ貨客船で、米を三十石積めることから 三十石船と呼ばれ、別名を過書船とも云われていました。 大きさ:長さ約17m、幅約2.5m 定員:船頭4人、乗客28人 所要時間:上り (大坂→京都) 約1日、下り (京都→大坂) 約半日 写真はこちらから |
震災で被害を受けた「宮城県慶長使節船ミュージアム」が平成25年11月3日に再開しました。 当方で作成した帆船模型をサン・ファン館(通称)に寄贈させていただきました。 仙台藩初代藩主・伊達政宗が江戸時代初頭に同藩陸奥国領内で建造したガレオン船。 仙台領内に滞在していたスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノに協力させて 建造した、約500トン級で最初の日本製西洋型軍船である。 船名は「洗礼者・聖ヨハネ」の意で、元は「伊達丸」と呼ばれていたとの説もある。 支倉常長ら慶長遣欧使節は、仙台とローマとの往復のうち太平洋横断において同船を使用しました。 写真の模型は慶長使節ミュージアム限定販売品サンファンバウティスタ号の帆船模型です。 写真はこちらから |
同志社創立135周年記念「新島襄と同志社」展示用に造った模型です。 元はニューヨークで建造されたアメリカの木造帆船ゴーウルノルワラス。 文久2年(1862年)9月に松山板倉藩が購入し「快風丸」と命名した。 明治元年(1868年)に岡山藩が保管、同年10月24日に朝廷が借用、11月26日に軍務官所管となった。 明治2年(1869年)7月8日に一時兵部省(陸軍部)所管、明治4年(1871年)12月17日に 兵部省(海軍部)所管となり1880年(明治13年)まで石炭輸送に従事した。 同年1月19日運輸船と定められたが、翌1881年(明治14年)2月7日除籍、売却された。 同志社大学創始者「新島 襄」がワイルドローバー号で渡米する前函館港まで乗船した洋式帆船です。 写真はこちらから |
Archibald Russell (1905年-1949年) いなみ矯正歯科医院様からの依頼第2段です。 11月の半ばに完成してショーウインドウに展示してもらっています。 帆船: L:1850mm W:460mm H:1300mm メインマストは甲板から 930mmです。 いなみ矯正歯科 〒611-0031 宇治市広野町東裏 62-1 |
特注のカティサーク号です。 全長は1.5mを超える大型の模型です。 写真はこちらから 昨年夏(平成18年)いなみ矯正歯科医院新築落成に際し、居波先生より 帆船の作成依頼を受けていたカティサーク号を先生のご意向も 取り入れて完成し納めさせていただきました。(長さ約1m60cm) 当医院の一階ショーウィンドウに展示されています。 このような立派な所に私の作成した船が飾られている事、大変光栄に思います。 近くを通られる際は是非見てください。 (外からどなたでも見ることができます) いなみ矯正歯科 〒611-0031 宇治市広野町東裏 62-1 |
同志社大学創始者「新島 襄」が渡米時に乗った船です。 同志社大学資料館Neesima Roomに設置の予定 詳しくはリンクから 同志社の創立者,新島襄は1864年に函館から「脱国」してアメリカに向かいました。 この船は新島が上海からボストンまで乗船を許された船です。 このとき船長から「ジョー」と呼ばれ後に漢字で襄と改名しました。
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全長34メートル 乗務員110名 大砲16門 トン数300トン マスト3本 ガリオン船 17世紀の初頭、西暦1600年4月19日オランダから一隻のオランダ船が、臼杵市佐志生に漂着しました。 船の名前は「リーフデ号」、航海長はイギリス人「ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)」、 水先案内人はオランダ人の「ヤン・ヨーステン」でした。 2人はその後、大砲などの武器を操作する技術や西洋の新しい技術を買われ、 徳川家康の外交顧問として活躍。リーフデ号の漂着は、日本の大きな転機となった事件のひとつでした。
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帆船模型組み立ての実演 (奥野帆船はこの2人でやってます) |
作成風景: 実際に帆船模型を作っているところを順に見れます。 |
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一品物・その他
リバークイーン ←拡大写真はここから | ||||
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サン・ファン・バウティスタ←拡大写真はここから | ||||
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